柳川へ行きました、2
「柳川へ行きました」その2です。
展示品です。
兜です。
立花宗茂のお嫁さん、誾千代(ぎんちよ)の鎧です。
誾千代は、立花道雪(戸次鑑連)の娘でした。
立花道雪には子供に男の子がいませんでした。
誾千代は、立花道雪が色々な手順を踏んで大友宗麟に許可を得て7歳でしかも女性でしたが、城主になることが出来ました。
展示品です。
兜です。

立花宗茂のお嫁さん、誾千代(ぎんちよ)の鎧です。
誾千代は、立花道雪(戸次鑑連)の娘でした。
立花道雪には子供に男の子がいませんでした。
誾千代は、立花道雪が色々な手順を踏んで大友宗麟に許可を得て7歳でしかも女性でしたが、城主になることが出来ました。
立花誾千代 : 永禄12年8月13日(1569年9月23日)生まれ
慶長7年10月17日(1602年11月30日)死没
その誾千代の婿にということで、高橋紹運(たかはしじょううん)の息子、高橋統虎(たかはしむねとら)を婿養子に迎えました。
後の 立花宗茂(たちばなむねしげ)です。
立花宗茂 : 永禄10年8月18日(1567年9月20日)生まれ
その誾千代の婿にということで、高橋紹運(たかはしじょううん)の息子、高橋統虎(たかはしむねとら)を婿養子に迎えました。
後の 立花宗茂(たちばなむねしげ)です。
立花宗茂 : 永禄10年8月18日(1567年9月20日)生まれ
寛永19年11月25日(1643年1月15日)死没。

立花宗茂の鎧兜です。

立花宗茂は関ヶ原の戦いの時に西軍でした。
戦いに敗れて領地を没収されましたが、宗茂は再び立花の城柳川へ戻ってくることが出来ました。
関ヶ原の戦いで西軍だった大名で再び同じ領地に戻ってこれたのは立花宗茂だけだったそうです。
この後江戸の時代に入り、立花宗茂は70歳台で島原の乱にも討伐軍として参戦しているそうです。
「柳川へ行きました」つづきます。
「柳川へ行きました」つづきます。
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コメント
立派な展示品の数々ですね、
誾千代さんの鎧のスマートな事
どんか方あだったのか 少々気にもなります。
投稿: nyar-nyar | 2016/07/05 16:14
◇nyar-nyarさん、コメントをありがとうございます。
展示品個人的な史料館としては充実していて
見ごたえがありました。
誾千代さん、時代でいうと戦国時代後半くらいの
人らしいですが、この史料館には誾千代さんの
肖像画はなかったようでした。
確かにこの鎧からするとスレンダーな人だった
ようです。
投稿: 浜辺の月 | 2016/07/05 23:03
西洋風の兜は、織田信長が有名ですが、徳川家康も所持していたのを最近知りました。
投稿: 玉井人ひろた | 2016/07/08 19:05
◇こんばんは、玉井人さん。
コメントをありがとうございます。
西洋風の兜、織田信長、そして徳川家康も
所持していたのですか?なるほど。
この記事の一番最初の写真の兜も西洋風と
言えばそういう感じですよね。
戦国の時代に結構西洋のものが日本に入って
いるんですね。
投稿: 浜辺の月 | 2016/07/09 00:03