遊歩公園の彫刻とレリーフ
「遊歩公園の彫刻とレリーフ」です。
今日2018年6月3日ですが、5月25日のことをブログ記事として載せます。
遊歩公園を歩きました。
遊歩公園は、街中に木があって、彫像と、レリーフが数体数枚あります。
まず「伊東ドン・マンショ」の像があります。
伊東ドン・マンショのドン・マンショは洗礼名です。
伊東ドン・マンショは、戦国時代の豊後の大友宗麟の名によりヨーロッパへ行き、ローマ法王に拝謁した少年使節の一人です。Wikipediaから参照抜粋して載せます。
参照、Wikipediaより:
天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)は1582年(天正10年)に九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年(天正18年)に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られるようになり、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われキリシタン版と呼ばれる。
使節の少年たちは有馬晴信が日野江城下に建てたセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた。
· 伊東マンショ(主席正使) 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
· 千々石ミゲル(正使) 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。
· 中浦ジュリアン(副使) 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。2007年に福者に列せられる。
· 原マルティノ(副使)後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
瀧廉太郎の像もありました。
瀧廉太郎は病気だったのですが、このo市で治療していて最後亡くなりました。
日本初の乳児院のレリーフです。
戦国時代の大友宗麟の時にザビエルのキリスト教の布教の後、アルメイダ医師が日本で初めての乳児院を作ったと記録があるそうです。
アルメイダ医師は、西洋式医院も日本で初めて作って治療をしたそうです。
「遊歩公園の彫刻とレリーフ」終わります。
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